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1847年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了した。1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタと、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えた。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払った。
このメキシコ割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失った。不毛の砂漠地帯だったこれらの土地ではあったが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになる。
アメリカ軍はこの戦争で約13,000名の死者を出したが、このうち戦死したのは約1,700名で、その他のほとんどは黄熱などの疾病による犠牲者であった。なお、メキシコ軍の死傷者は25,000名程と見られている。
この戦争は、米墨両国の銃火器の差が顕著で、それが戦闘の帰趨に大きな影響をもたらしたと言われている。アメリカ軍が最新の国産ライフル銃を使用したのに対して、メキシコ軍はナポレオン戦争で使用された一世代前のイギリス製小銃を装備していた。
この戦争で特筆すべき点のひとつとして聖パトリック大隊(サン・パトリシオス)の存在がある。メキシコを支持してアメリカ軍籍を放棄した約500名の元アメリカ兵によって構成され、その多くはアイルランド生まれ(アイルランド系移民)であった。この元アメリカ兵たちの多くはチュルブスコ会戦の結果、アメリカ軍に降伏し捕虜となったが、スコット将軍は彼等を脱走兵として処断、メキシコシティ陥落時に一斉処刑した。この事件については歴史家の間でも意見の対立が有る。すなわち、彼等聖パトリック大隊員を捕虜だったとする意見と、逆に反逆者あるいは脱走兵だったと主張する意見が対立している。前者を採った場合、スコット将軍の処刑は捕虜虐殺となり、重大な戦争犯罪にあたる。一方、後者を採用した場合、将軍の行為は正当で違法性は無いものとなる。なお、メキシコにおいて聖パトリック大隊は英雄であり、各地に多くの記念碑がある。
また、
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とカリフォルニアへの行軍を共にしたモルモン大隊は、ソルトレイクシティのモルモン教徒で構成された、アメリカ軍の歴史の中で唯一の「宗教の」部隊として知られる。彼らはユタ州へのモルモン教徒の移住を助けるために組織された。
アメリカ退役軍人協会からのデータによれば、米墨戦争に従軍した最後の生き残りオーエン・トマス・エドガー (Owen Thomas Edgar) は、1929年9月3日に98歳で死去した。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を巡って、デンマークとプロイセン王国および関係国によって行われた戦争。2回にわたって行われ、第一次は1848年から1852年、第二次は1864年に行われた。第二次の戦争がプロイセン側の勝利となり、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国はプロイセンとオーストリア帝国の管理下に置かれ、後にプロイセンの州となった。高等学校世界史教科書などではデンマーク戦争と表記されている。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争勃発の起因となったのは、19世紀に沸き上がった両公国民による民族主義の昂揚であった。この問題はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と呼ばれている。
戦争の発端は、1848年にホルシュタイン公国で起きたフリードリヒ・フォン・アウグステンブルク(Friedrich von Augustenburg, デンマーク王家オレンボー家の支流アウグステンブルク家の一族)による暫定政府の樹立である。この政府はデンマークからの分離を目指しており、背後にプロイセン王国の支援があった。暫定政府の樹立は、デンマークへの反乱を意味していた。デンマークは反乱の鎮圧、そして両公国のデンマークへの完全併合を目的として、シュレースヴィヒに侵攻した。プロイセン介入の可能性がありながらデンマークが強気の攻勢に出たのは、その背景に北欧全土に沸き上がった民族主義、汎スカンディナヴィア主義の昂揚があったからである。特にスウェーデンはデンマークを後方から支援した。中立主義(武装中立)を標榜しながら、ほぼ正規軍を戦闘に参戦させたのである。スコーネには有事に備え、1万人のスウェーデン軍を待機させていた程である。スウェーデンはデンマークが苦境に立たされた場合に備え、中立主義を放棄する意志を秘めていた。
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によって、デンマークは反乱軍を退け、絶対王政を放棄した「6月憲法」を制定して両公国に布告を迫った。しかしデンマーク優位の状況は、プロイセンの直接介入によって振出しに戻され、デンマークは次第に劣勢に追い込まれた。このような状勢の厳しさに、スウェーデンは一転して和睦を試みるようになる。
攻勢に立ったプロイセンであったが、ホルシュタインを占領したところで列強は戦争継続阻止を掲げ、プロイセンに圧力をかけた。この
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によりデンマークは反撃に出て、戦争は膠着化した。和睦交渉はマルメ、ベルリンを経て、1852年にロンドンで最終的にロンドン議定書として妥協が成立した。戦争終結は、デンマーク王フレデリク7世を英雄に仕立て上げ、スウェーデン王オスカル1世に名声を与えたが、事実は勝者無き休戦であった。
1863年にデンマーク王フレデリク7世が死去すると、オレンボー家は断絶し、その後継者として同家の支流グリュックスブルク家からクリスチャン9世が王位に登攀した。しかしシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡る争いは決着しておらず、ロンドン議定書で結ばれた内容は現状維持であった。フレデリク7世が生前に布告した「継承令」には、当時の王家による両公国の継承も含まれていた。これを「11月憲法」と言うが、その条目はロンドン議定書には含まれていなかった。この盲点を突いて、プロイセン王国首相ビスマルクは、条約違反を主張し、「継承令」及び「11月憲法」の撤回を要求した。しかもビスマルクは、オーストリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。
デンマークは外交によって解決可能であると楽観視し、プロイセンの要求には応じなかった。列強はプロイセンに同調したが、スウェーデンだけは参戦して来るという目論見があった。汎スカンディナヴィア主義の昂揚を背景に、スウェーデン王カール15世はデンマークを完全に支持し、2万の兵の派遣を約束していたのである。しかしスウェーデンではすでに国王の手から政治的実権が離れつつあり、スウェーデン議会は軍の派遣を拒否した。汎スカンディナヴィア
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は、これをもって事実上挫折した。
プロイセン首相ビスマルクは、列強を中立化させる事に成功した。さらにデンマークに対し48時間の猶予しか与えなかった。1864年2月、プロイセン・オーストリア連合軍は、デンマークに宣戦布告し、シュレースヴィヒに侵攻した。デンマークは、プロイセン軍の圧倒的な軍事力の前に為す術がなかった。初期の海戦においては、ヘルゴラント海戦のように戦術的には勝利することもあったが、連合軍を完敗せしめるまでには至らず、デンマーク側は劣勢へと追い込まれて行った。プロイセン・オーストリア連合軍優位の中で、デンマークは外交によって問題を解決しようと試みるが、全て失敗に終わった。デンマークの妥協案は、その地名を取って「ダーネビアケ計画」、「エイデル計画」と呼ばれたが、国境線を定める案はことごとく連合軍によって拒否された。連合軍はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン全土の割譲を要求したのである。
孤軍奮闘のデンマーク軍は士気が高く
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したが、連合軍との圧倒的な軍事力の差は埋まらず、後退を繰り返しつつ一方的な守勢に立たされた。結局、デンマークは完敗し、屈服を余儀なくされた。10月30日にウィーンにおいて条約が結ばれ、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン両公国は、プロイセンとオーストリアの共同管理下に置かれた。
戦争終結後、プロイセンとオーストリアの両国は両公国の領有を巡り、1866年に普墺戦争を起こすに至った。これは当時ドイツで起こったドイツ統一の主導権争いの再開であった。北欧においてこの戦争は、北欧の一体化を志した汎スカンディナヴィア主義の挫折を意味した。北欧統一の理想はこの戦争によって破綻し、以後、北欧の民族主義は抑圧され、王権は弱体化し、民主主義と中立主義への道を歩んで行った。